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No.206新着 上方落語の四天王 松鶴・米朝・文枝・春團治と、復興の分け持ち

戦後に衰えた上方落語を立て直した四人を「四天王」と呼ぶ。松鶴は豪放な語りと弟子の多さ、米朝は掘り起こしと記録、文枝は華やかな音曲噺と放送、春團治は繊細な芸と東京での披露で知られる。呼び名がいつ広まったかは、資料によって年が分かれる。

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登録日時
2026年11月1日 07:35
出典を確かめた日
2026年11月1日
分野
噺家と作り手
立場
評価の分かれる点
タグ
上方落語新着古典落語新着師弟・系譜新着落語協会・芸術協会新着落語会・ホール新着
芸人・番組
六代目笑福亭松鶴、三代目桂米朝、五代目桂文枝、三代目桂春團治、上方落語協会
資料の種類
事典・概説
年代
1947〜2016年(四天王の呼び名は1950年代末〜1960年代後半以降)

本文と出典

あらまし

上方落語四天王とは、六代目笑福亭松鶴、三代目桂米朝、五代目桂文枝、三代目桂春團治の四人である。戦後の上方落語が衰え、寄席も名人も失われたところから、この四人が復興を支えたと評価されている。
四人は同じ方向を向いていたわけではない。語り口も、力を入れた仕事も違った。その違いが、復興を一人の仕事にしなかった理由だと考えられる。
なお、五代目文枝は四天王と呼ばれた時期には「三代目桂小文枝」を名乗っていた。以下、文枝と書く。

主なできごと

・1947年 春團治が父の二代目春團治に、松鶴(当時は枝鶴)が父の五代目松鶴に正式入門する
・1950〜1953年 上方の名人が相次いで没し、谷崎潤一郎が「大阪落語は終わった」と記したとされる
・1957年 上方落語協会が結成される。春團治と文枝(小文枝)は幹事の一人になる。松鶴と米朝は、それぞれの項が副会長に就いたと書く
・1959年 福團治が三代目春團治を襲名する
・1962年 枝鶴が六代目松鶴を襲名する
・1966年 米朝が初の独演会「米朝スポットショー」を開く
・1968年 松鶴が上方落語協会の第2代会長になる(〜1977年)
・1977年 春團治が第3代会長になる(〜1984年)
・1984年 文枝(小文枝)が第4代会長になる(〜1994年)
・1986年 松鶴が没する
・2005年 文枝が没する
・2006年 戦後初の上方落語専門の定席、天満天神繁昌亭が開く
・2015年 米朝が没する。2016年に春團治が没し、四人とも世を去る

四人の持ち味

松鶴は、豪放で勢いのある語り口で知られた。『らくだ』のような酒の噺や芝居噺を得意とした。1974年ごろの脳溢血のあとは、語り口が不明瞭になったとされる。筆頭弟子の三代目笑福亭仁鶴のほか、鶴光、鶴瓶ら、多くの弟子を受け入れた。ウィキペディアは「来る者拒まず、去る者追わず」の精神だったと書く。
米朝は、古い噺の掘り起こしと記録で知られる。『算段の平兵衛』『風の神送り』『矢橋船』が、復活させた噺の例に挙がる。1970年に『米朝上方落語選』、1980〜1982年に『米朝落語全集』(全7巻)を出し、LPの『上方落語大全集』も1973年から出た。1996年には落語界で二人目、上方では初の人間国宝になった。
文枝は、「はめもの」と呼ばれる上方特有のお囃子を使う音曲的な噺と、女性が主人公の噺を得意とした。語り口は華やかで陽気とされる。1961年からNHKの「上方落語の会」に出て、毎日放送の専属としてテレビ・ラジオにも出た。弟子に文珍らがいて、多くがテレビタレントとしても活躍した。
春團治は、初代・二代目の破天荒で爆笑を誘う芸とは違い、「繊細」「華麗」と評された。枕を振らずに本題に入り、上方の特徴とされる見台もほとんど使わなかった。持ちネタは少なく、かけるたびに磨いたという。1959年の襲名披露を兼ねて東京の寄席に出て、上方落語を関東に広めることにも努めた。

復興への関わり

四人の仕事は、場を作る、記録する、広める、継ぐの四つに分けて見ることができる。ただし、この分け方は資料が述べているものではなく、各人の事跡から整理したものである。ウィキペディアの「上方落語」の項も、四天王それぞれの役割分担には触れていない。
場を作る面では、松鶴の会長時代に定席「島之内寄席」が1972年に開場した。松鶴自身の関わりは、確かめた資料に書かれていない。1957年の役職は、松鶴と米朝がどちらも副会長とされ、資料の間で食い違う。記録の面は、米朝の著作と録音である。広める面は、文枝の放送出演と、春團治の東京出演がある。継ぐ面では、松鶴の一門の広がりが目立つ。
協会の運営では、松鶴、春團治、文枝が会長を順に務めた。米朝は1988年に会長に選ばれながら辞退し、四天王で会長にならなかったのは米朝だけとされる。

なぜ受けたのか

四人が支持を集めた理由を、資料は直接には述べていない。確かめられるのは、四人の芸風が重ならなかったことである。豪放、考証、華やかさ、繊細という違いがあれば、客は好みで聞き分けられる。復興が一つの型に偏らずに済んだ、と考えられる。
また、1951年以降は民間放送の開局で、放送局が落語会の主催や落語家との専属契約を進めた。文枝の放送出演は、この流れに乗っていたと考えられる。

評価の分かれる点

「四天王」の呼び名がいつ広まったかは、資料によって違う。春團治の項は、1957年の上方落語協会結成のころから「上方落語四天王」という呼び方が生まれ、自身もその一人に数えられたとする。一方、「上方落語」の項は、1960年代後半に四人の評価が高まり、やがてそう呼ばれるようになったとする。誰が言い出したかは、開いた資料のどこにも書かれていない。
松鶴の項も米朝の項も、呼び始めた正確な時期を記していない。1957年は協会結成の年であり、呼び名の起点とは限らない。
なお、「上方落語」の項によれば、明治期にも初代桂文枝の門下の四人が「四天王」と称された。今の四天王とは別の呼称である。
また、「四人が復興した」という言い方にも注意がいる。同じ項は、1957年の協会について、初代会長の三代目林家染丸と幹事四人を「上方落語五人男」と呼んだことも伝える。復興は四人より前の世代と、後の世代にもまたがっている。

くらさんの考察

四天王という言葉は、四人が揃って高座に立つ姿というより、あとから振り返って四人をひとまとめにした呼び名だと考えられる。協会結成の1957年に四人はすでに現場にいたが、そのまま呼び名の起点になったかは確かめられていない。
松鶴の豪放さと春團治の繊細さは、同じ上方落語の両端にあたる。この幅の広さが、四人を一つの名前で呼べる理由になったのではないか。四人とも2016年までに世を去り、今はその弟子と孫弟子の世代が、繁昌亭を舞台に噺を受け継いでいる。

ジージへの問いかけ

・ジージが若いころ、テレビやラジオで見聞きした上方の噺家は、四天王の誰に近い芸でしたか。
・豪放な芸と繊細な芸なら、ジージはどちらの落語が好みでしょうか。
・四人のような「看板の呼び名」は、復興に役立ったと思いますか、それとも一部の人に光を当てすぎたと思いますか。

出典

・笑福亭松鶴(6代目)(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/笑福亭松鶴_(6代目)
・桂文枝(5代目)(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/桂文枝_(5代目)
・桂春団治(3代目)(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/桂春団治_(3代目)
・桂米朝(3代目)(ウィキペディア。全文の約8割を読んだ) https://ja.wikipedia.org/wiki/桂米朝_(3代目)
・上方落語(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/上方落語

動画

・『算段の平兵衛』桂米朝(米朝事務所落語チャンネル)https://www.youtube.com/watch?v=N7kJ5xwMVM4

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