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No.209新着 五代目柳家小さん 滑稽噺で昭和を笑わせた、落語家初の人間国宝

五代目柳家小さん(本名 小林盛夫、1915〜2002)は、1933年に四代目小さんに入門し、1950年に五代目を継いだ。1972年から1996年まで落語協会の会長を務め、1995年に落語家として初めて重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。滑稽噺を得意とし、小三治・談志をはじめ多くの弟子を育てた。

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登録日時
2026年11月2日 21:04
出典を確かめた日
2026年11月2日
分野
噺家と作り手
立場
くらさんの考察
タグ
古典落語新着滑稽噺新着江戸落語新着落語協会・芸術協会新着師弟・系譜新着テレビ新着
芸人・番組
五代目柳家小さん、四代目柳家小さん、粗忽長屋、時そば、十代目柳家小三治、柳家花緑
資料の種類
事典・概説
年代
1915〜2002年

本文と出典

あらまし

五代目柳家小さんは、長野県長野市に生まれた落語家である。本名は小林盛夫。前座のうちに兵隊にとられ、二・二六事件に一兵卒として動員された経験を持つ。戦後に真打となり、1950年に五代目小さんを襲名した。滑稽噺を得意とし、ラジオとテレビの時代に人気を得た。落語協会の会長を24年務め、1995年には落語家で初めての人間国宝となった。剣道の範士でもあり、弟子は十代目柳家小三治、七代目立川談志など数多い。2002年5月16日に87歳で亡くなった。

主なできごと

・1915年 1月2日、長野県長野市に生まれる
・1933年 四代目柳家小さんに入門し、栗之助を名乗る
・1936年 兵役にとられ、二・二六事件で反乱部隊の兵卒として警視庁占拠に動員される
・1939年 二つ目に昇進し、小きんを名乗る
・1947年 真打に昇進し、九代目柳家小三治を名乗る
・1950年 五代目柳家小さんを襲名
・1962年・1967年 芸術祭賞奨励賞
・1972年 落語協会会長に就任
・1980年 紫綬褒章
・1983年 真打昇進試験をめぐって弟子の立川談志と対立し、談志は協会を出る
・1985年 勲四等旭日小綬章
・1995年 落語家として初めて重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される
・1996年 落語協会会長を退き、最高顧問となる
・2002年 5月16日、87歳で死去

くわしく

入門から兵役、襲名まで

1933年に四代目柳家小さんの門に入った。前座名は栗之助である。1936年に徴兵されると、その直後に二・二六事件が起きた。文藝春秋の記事によれば、反乱部隊の兵卒として警視庁占拠に動員されている。ウィキペディアは、所属は歩兵第3連隊で、反乱部隊の屯所で士気を上げるために高座を命じられ「子ほめ」を演じたと伝えるが、この逸話は他の出典では確かめられなかった。
二つ目昇進は1939年、名は小きん。再び召集されたのち戦後に復員し、1947年に真打となって九代目小三治を名乗った。文藝春秋の記事は、その後に師匠の四代目が急死し、八代目桂文楽の預かり弟子になったと書く。1950年、五代目小さんを継いだ。

芸風と得意の噺

事典はそろって滑稽噺の人と位置づける。日本大百科全書は「滑稽噺を得意とする昭和の大型落語家」、新撰芸能人物事典は表情豊かで明るい芸風と書き、世界大百科事典は三代目小さん以来の本格落語の流れにつながる芸と見る。
得意の噺として挙がる演目は、事典によって少しずつ違う。「粗忽長屋」「時そば」「長屋の花見」「らくだ」「宿屋の富」「笠碁」「親子酒」「うどん屋」がたびたび名前の出る演目で、百科事典マイペディアは「三人旅」「長短」を挙げる。どれか一つを十八番と決める根拠は、確かめた範囲では見つからなかった。酒や食べ物、そそっかしい人をめぐる、筋の単純な噺が多いのが目に付く。

落語協会の会長として

1972年、六代目三遊亭圓生の後を受けて落語協会の会長に就いた。在任中の1978年には圓生らが協会を出る分裂騒動が起き、1983年には真打昇進試験をめぐって弟子の談志と対立した。談志は協会を出て落語立川流を立て、小さんからは事実上破門されたとされる。この二つの経緯は時代の記事(id 6)と談志の記事(id 94)にゆずる。1996年に会長を退いて最高顧問となった。

剣道と一門

剣道は13歳から始め、範士七段に至った。ウィキペディアによれば、自宅を改装した道場で弟子にも稽古をつけたという。
弟子には十代目柳家小三治、七代目立川談志、五代目鈴々舎馬風、柳家さん喬、四代目柳亭市馬らがいる。小三治は2014年に人間国宝に認定され、師弟二代での認定となった。孫の柳家花緑は1987年に祖父に入門し、1994年に22歳で真打となった。ウィキペディアは、花緑を小さんの最後の弟子と記す。

なぜ受けたのか

襲名のころはラジオの全盛期で、落語ブームの中で滑稽噺の人気者になった。滑稽噺は筋が分かりやすく、耳だけで聞いても笑える。ラジオの客にも、その後のテレビの客にも届きやすい芸だった。ウィキペディアによれば、永谷園「あさげ」などのテレビCMにも出て人気を集めたという。高座の外で顔を知られたことも、寄席に足を運ばない人にまで名前が広がった理由と考えられる。

評価の分かれる点

会長在任中の二つの分裂、とくに真打昇進の扱いについては、協会の舵取りとしてどう見るか、立場によって受け止め方が分かれる。ウィキペディアの関連の記述にも出典の足りない箇所があり、ここでは事実の経過だけにとどめる。
得意演目の挙げ方が事典ごとに違うのも、評価の軸の違いを映している。食べ物や酒の噺を代表とみる見方と、「らくだ」「三軒長屋」のような長い噺に力を見る見方がある。

くらさんの考察

人間国宝の第1号が、人情噺の大ネタではなく滑稽噺の名手だったことは興味深い。笑いの噺は軽く見られがちだが、何でもない仕草や間で客を笑わせる技こそ伝えるべき芸だと、認定の側も見ていたと考えられる。
また、弟子の顔ぶれの幅も目を引く。マクラで客をつかむ小三治と、協会を出て家元を名乗った談志は、芸の向きも生き方も大きく違う。一つの型を押しつけず、弟子それぞれの道を許す師匠だったからこそ、これだけ多様な噺家が出たのではないかと考えられる。

ジージへの問いかけ

・ジージがテレビで小さんを見た記憶は、高座の落語でしょうか、それとも「あさげ」などのCMでしょうか。
・人間国宝の第1号が滑稽噺の名人だったことを、当時どう受け止めましたか。
・師匠と弟子が協会のことで袂を分かつ(小さんと談志)のを見て、どちらの気持ちに近いと思いますか。

出典

・ウィキペディア「柳家小さん (5代目)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/柳家小さん_(5代目)
・コトバンク「柳家小さん」(デジタル大辞泉・日本大百科全書・新撰芸能人物事典・20世紀日本人名事典ほか) https://kotobank.jp/word/%E6%9F%B3%E5%AE%B6%E5%B0%8F%E3%81%95%E3%82%93-648843
・文藝春秋 BOOKS「柳家小さんの『噺家は貧乏が出来なきゃダメ』」(2012年7月30日) https://books.bunshun.jp/articles/-/1585
・東スポWEB(2014年7月20日、小三治の人間国宝認定の記事) https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/92633
・ウィキペディア「立川談志」 https://ja.wikipedia.org/wiki/立川談志
・ウィキペディア「柳家花緑」 https://ja.wikipedia.org/wiki/柳家花緑

動画

・小三治さんら人間国宝に 古典落語から3人目(共同通信 KYODO NEWS)https://www.youtube.com/watch?v=vlFQoISnvUI

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