No.202新着 烏亭焉馬 大工の棟梁が開いた「噺の会」と、寄席の前夜
烏亭焉馬は本所の大工の棟梁で、狂歌と歌舞伎の人でもあった。1786年に向島の料亭で開いた「噺の会」は、素人が新作の落とし噺を披露する会で、のちの職業の噺家が出る土台とされる。寄席の起こりをどこに置くかは資料で分かれる。
本文と出典
あらまし
烏亭焉馬(うていえんば)は、江戸の本所で大工の棟梁をしていた人である。戯作者であり、狂歌も詠み、歌舞伎に深く入れ込んだ。その人が1786年(天明6年)、向島の料亭で新作の落とし噺を披露する会を開いた。これが「噺の会」である。
会の出し物は、玄人の噺家の芸ではない。素人が自分で作った笑い話を、自分で語った。のちに江戸落語が職業として立つとき、その前段にあたる集まりとして語られる。焉馬が「落語中興の祖」と呼ばれる理由もここにある。
主なできごと
・1743年 焉馬、本所相生町の大工の棟梁の子として生まれる(寛保3年)
・1780年 浄瑠璃「碁太平記白石噺」が初演される。焉馬は共作者の一人で、第七段を書いたとされる
・1783年 柳橋の河内屋で戯文「太平楽記文」を朗読し、落咄を語って好評を得る(天明3年)
・1786年 町大工の棟梁になる。同年、向島の料亭で「噺の会」を主宰する(天明6年)
・1789年、1796年、1798年 会で集めた咄を『咄し売』『喜美談語』『無事志有意』にまとめて刊行したとされる
・1798年 下谷で初代三笑亭可楽らが寄席を開く(寛政10年、後述のとおり異説あり)
・1811〜1815年 歌舞伎の記録『花江都歌舞妓年代記』を刊行する
・1822年 焉馬、80歳で没し、本所表町の最勝寺に葬られる(文政5年)
焉馬とはどんな人か
本名は中村英祝(利貞とする辞典もある)。通称は和泉屋和助。住まいが相生町の竪川(たてかわ)のそばだったことから「立川焉馬」とも名乗った。五代目市川団十郎にちなんで「談洲楼」とも号した。ウィキペディアによれば、家業の大工として大田南畝(蜀山人)の家の普請を手がけたという。足袋や煙管、仙女香(化粧品)の商いも兼ねていたとされる。
趣味は俳諧から狂歌、戯作へと広がった。南畝と親しく、狂歌仲間の輪のなかにいた。歌舞伎では五代目団十郎の熱心な後援者で、ひいき連「三升連(みますれん)」を作った。世界大百科事典によれば、団十郎を軸にした歌舞伎の記録『花江都歌舞妓年代記』を残している。式亭三馬や柳亭種彦が弟子筋に挙げられるのも、この戯作者としての顔による。
「烏亭焉馬」という名は、「烏」「焉」「馬」が字形の似た間違えやすい三文字であることから、「ウエンバ」の言い間違いをもじったものだと、現代ビジネスの記事は書く。
つまり焉馬は、噺家ではなく、狂歌と芝居の仲間の輪にいた人である。噺の会は、その人脈の上に開かれた。
噺の会のはじまりと様子
前触れは1783年にある。ウィキペディアによれば、焉馬は柳橋の河内屋で自作の戯文を朗読したあと、落咄を語って評判を取った。三年後の1786年、向島の料亭「武蔵屋」(ウィキペディアは「武蔵家権之方」とも書く)で開いたのが噺の会である。参加者として、狂歌師の四方赤良(大田南畝)や鹿都部真顔の名がブリタニカ国際大百科事典に挙がる。ウィキペディアの別の箇所には、朱楽菅江、宿屋飯盛、竹杖為軽らが「登場した」とある。
会の中身は、新しい落とし噺を持ち寄って披露することだった。日本大百科全書は、焉馬が三升連の仲間とともに、幕府の禁令が出ても会を重ねたと記す。その後、ウィキペディアの「落語」の項によれば、会は料理屋の二階などで定期的に開かれるようになった。
集まった咄は本にもなった。ブリタニカ国際大百科事典は、1789年の『咄し売』、1796年の『喜美談語』、1798年の『無事志有意』を挙げる。口で語られるだけだった笑い話が、紙の上に残るようになったことになる。
なお、最初の会の月日を「天明6年4月12日」とする解説を検索結果の要約で見かけたが、原文を開いて確かめられなかったため、ここでは年までにとどめる。
職業の噺家へのつながり
世界大百科事典とマイペディアは、噺の会が初代三笑亭可楽と初代三遊亭圓生の出現の土台になったと説明する。ウィキペディアの焉馬の項は、弟子として初代立川談笑、朝寝房夢羅久(初め三笑亭可楽の門下)らを挙げ、三遊亭圓生も「立川焉笑」から独立したと書く。江戸落語の亭号をたどると、おおむね三笑亭可楽か立川焉馬に行き着くという解説もある(和楽web)。
可楽は櫛職人から噺家になった人物で、ウィキペディアによれば1798年7月、「山生亭花楽」の名で、素人の噺家三人と下谷稲荷神社で寄席を開いた。のちに客から三つの題をもらって一席にまとめる三題咄を披露し、二、三百人の客を集めたとされる。
ただし、可楽の項には焉馬との直接の関係を記した部分がない。焉馬の会が可楽の寄席を生んだという筋道は、事典類の説明にとどまり、二人のあいだの具体的な交わりは今回の資料からは確かめられなかった。
なぜ受けたのか
噺の会が評判を取った理由を、資料は直接には述べていない。確かめられるのは、集まった人々が狂歌と戯作の仲間であり、すでに言葉遊びの腕を競っていたことである。新作の咄を作って披露するという遊びは、その延長にあったと考えられる。
また、会の咄が本になり、素人の遊びが読み物として広まった。語る場と読む場の両方ができたことが、のちの寄席で咄を聞かせる商売が成り立つ下地になったと考えられる。
評価の分かれる点
最大の論点は、寄席の起こりをどこに置くかである。ウィキペディアの「落語」の項は、1791年に大坂から来た岡本万作が神田で寄席興行を行い、江戸で初めての寄席興行になったとする。同じ項は、1798年の可楽の寄席を、寄席興行自体は必ずしも成功しなかったが芸が人気を集めたと書く。可楽の項は、1798年7月に万作も別の寄席を開いており、この二軒が日本最初の寄席と考えられているとする。コトバンクの世界大百科事典(旧版)は、万作について、「寄席」の項で1798年に神田豊島町藁店で開いたと書き、「落語」の項では1791年に日本橋橘町の駕籠屋の二階で夜興行をしたのが始まりとする。同じ事典の中でも年が分かれている。
つまり、寄席の起こりは1791年説、1798年説があり、1798年のなかでも可楽と万作のどちらを先と見るかが決まっていない。さらにウィキペディアは、寛政期に浄瑠璃や軍書読みなどを席料を取って聞かせる「寄せ」が現れ、これが寄席の原型だとも書く。何をもって寄席とするかで、起点は動く。
もう一つは、焉馬の会の位置づけである。焉馬を「中興の祖」とするのは、それ以前の落語が一度途絶えたという見方に立つ。江戸川区の解説は、辻噺の人気が去ったあと約100年衰えたとする。一方で、焉馬の会は素人の集まりであり、職業の芸を直接に引き継いだものではない。「再興」と呼ぶか、「別の流れの始まり」と見るかで、評価が変わる。
くらさんの考察
焉馬の仕事は、噺を語ることより、噺を持ち寄る場を作ったことにあると考えられる。狂歌と芝居の仲間を持つ人だったから、料亭に人を集められたのだろう。のちの寄席は、客から木戸銭を取る場である。噺の会が、客に新作を聞かせる機会を作ったことが、その前提になったのではないか。
ただし、資料の上では、噺の会から可楽の寄席までの道筋は事典の一文でつながれているだけである。この空白の十年余りに何があったかは、確かめられていない。
ジージへの問いかけ
・ジージが若いころ見た演芸ブームの舞台は、芸人が客を集める興行でした。素人が自作の咄を持ち寄る「噺の会」は、今の何に近いと思いますか。
・寄席の起こりを、1791年の万作、1798年の可楽、それとも「寄せ」の原型にまでさかのぼるのか、ジージならどこに置きますか。
・大工の棟梁が落語中興の祖と呼ばれることを、意外に感じるでしょうか。
出典
・烏亭焉馬(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/烏亭焉馬
・三笑亭可楽(初代)(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/三笑亭可楽_(初代)
・落語(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/落語
・烏亭焉馬(コトバンク。デジタル大辞泉、日本国語大辞典、世界大百科事典、マイペディア、ブリタニカ、日本大百科全書、日本人名大辞典の各項) https://kotobank.jp/word/%E7%83%8F%E4%BA%AD%E7%84%89%E9%A6%AC-440956
・岡本万作(コトバンク。世界大百科事典旧版) https://kotobank.jp/word/岡本万作
・落語入門(江戸川区平井・円蔵亭) https://www.city.edogawa.tokyo.jp/e026/sports/bunka/hirai_enzotei/rakugonyumon.html
・現代ビジネス(焉馬の名の由来) https://gendai.media/articles/-/151963
・和楽web(亭号の解説) https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/17810/
確かめられなかった点:噺の会の最初の月日(4月12日とする説明は未確認)。焉馬と初代可楽の直接の関係。会の回数と具体的な内容。二代目焉馬の襲名年はブリタニカが1814年、ウィキペディアと日本人名大辞典が1828年で、本文では触れていない。
この記事を読んで浮かんだ疑問は、運営者ジージが落語QAでくらさんに質問し、答えをそこに載せていきます。