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No.5新着 戦後の落語 満洲帰りの二人と、上方の瀬戸際

戦後の東京では、満洲から1947年に帰国した志ん生・圓生と、文楽が、ラジオと寄席で全盛期を迎えた。同じころ上方は空襲で定席を失い、名人も相次いで亡くなって衰えたが、1957年の上方落語協会結成から復興が始まった。

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登録日時
2026年10月31日 09:43
出典を確かめた日
2026年10月31日
分野
戦後(1945〜1969)
立場
事実・データ
タグ
古典落語新着上方落語新着江戸落語新着ラジオ新着テレビ新着寄席新着師弟・系譜新着
芸人・番組
五代目古今亭志ん生、八代目桂文楽、六代目三遊亭圓生、三遊亭歌笑、桂米朝
資料の種類
事典・概説
年代
1945〜1969年

本文と出典

あらまし

終戦のころ、五代目古今亭志ん生と六代目三遊亭圓生は、慰問で満洲に渡って、帰れなくなっていた。二人は1947年に帰国して、東京の落語界の中心に戻る。八代目桂文楽と合わせて、昭和の「名人」と並び称される三人である。
放送の面では、1953年にテレビ放送が始まり、各局がラジオで専属契約を結んだ。上方では、空襲で定席が失われ、名人が相次いで亡くなって、一時は「終わった」とまで言われた。復興は1957年の上方落語協会から始まる。

主なできごと

・1947年 志ん生が満洲から帰国(1月)。圓生も帰国(3月)
・1947年 落語協会・日本芸術協会が自粛27演目を選ぶ(占領軍の指導を受けたとされる)。1949年4月に解除
・終戦直後 三遊亭歌笑が「純情詩集」で戦後の新作落語を始めたとされる
・1953年 志ん生・圓生・文楽がラジオ東京と専属契約。テレビ放送が始まる
・1950〜1953年 上方で、五代目松鶴(1950)、四代目米團治(1951)、染丸(1952)、二代目春團治(1953)が相次いで没する
・1956年 志ん生が『お直し』で芸術祭賞を受賞
・1957年 上方落語協会が結成され、三代目染丸が初代会長に就任。大阪の戎橋松竹が閉まる
・1960年 圓生が『首提灯』で芸術祭文部大臣賞を受賞
・1962年 米丸・圓右・柳昇・三平・歌奴・小金馬が「創作落語会」を結成(翌年、芸術祭奨励賞)
・1966年 米朝が大ホールでの独演会を始める

くわしく

東京の三人

志ん生は1890年に生まれ、1973年に没した。満洲から帰ったのち、寄席とラジオで引っ張りだこになった。ウィキペディアによれば、1953年にラジオ東京と放送専属契約を結び、翌年からはニッポン放送の専属となった。1957年から1963年まで落語協会の会長を務め、1961年に脳出血で倒れた。映画にも出ている。
文楽は1892年生まれ、1971年没。少ない演目を磨きぬいたことで知られる。落語協会の会長を、1955〜57年と1963〜65年に務めた。1971年8月31日、国立劇場の高座で噺を忘れて降り、そのまま12月に没した。
圓生は1900年生まれ、1979年没。1960年に『首提灯』で芸術祭文部大臣賞、1972年に芸術祭大賞を受けた。1965年から1972年まで落語協会の会長を務めた。

ラジオ・テレビ

1953年に三人がラジオ東京と専属契約を結んだことは、落語が寄席から放送へ広がった画期だった。新書『戦後落語史』の紹介は、ラジオ、テレビによる人気の沸騰を戦後落語史の大きな流れとして挙げる。1960年代にはテレビ演芸ブームが起こり、初代林家三平が「爆笑王」と呼ばれた。

上方の衰退と復興の始まり

空襲で大阪・神戸の定席が失われ、吉本興行は演芸から撤退した。1947年に戎橋松竹が演芸場となって、五代目松鶴や四代目米團治らが集まった。しかし1950年から1953年の間に名人が相次いで亡くなり、谷崎潤一郎は二代目春團治の死去に際し「大阪落語は終わった」と書いたとされる。
復興は、1957年の上方落語協会結成から始まる。1959〜1962年には三代目春團治と六代目松鶴が大名跡を復活させた。1966年に米朝が大ホールの独演会を始めたことで、寄席以外の場で上方落語を聞かせる流れもできた。

なぜ受けたのか

戦後の東京の名人が人気を保てたのは、戦前から磨いた芸が、ラジオという新しい受け皿に合ったためと考えられる。ラジオの専属契約は、一定の収入を保証し、芸人が寄席の客の数に左右されにくくなる効果があったと考えられる。
上方が衰えた理由は、戦災で寄席が失われたことと、名人の死が重なったことによる。

くらさんの考察

戦後は、落語が寄席の芸から放送の芸へと広がった時期だと考えられる。同じ時期に、上方が「寄席の芸」から「ホールの独演会の芸」へ変わっていったのも、同じ流れの別の姿といえる。
戦後の新作では、1950年代ごろから古典至上主義が強まって新作が押された、とウィキペディアは書く。名人が古典を磨いたこの時代は、新作の肩身が狭かった時代でもある。

ジージへの問いかけ

・ジージが若いころ、志ん生・文楽・圓生の落語を、ラジオやテレビで聞いたことはありますか。
・テレビ演芸ブームのころに見た、林家三平のような芸人の思い出はありますか。
・上方の落語が一度衰えたことを、大阪や泉南で実感したことはありましたか。

出典

・古今亭志ん生(5代目)(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/古今亭志ん生_(5代目)
・桂文楽(8代目)(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/桂文楽_(8代目)
・三遊亭圓生(6代目)(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/三遊亭圓生_(6代目)
・上方落語(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/上方落語
・新作落語(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/新作落語
・禁演落語(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/禁演落語
・落語(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/落語
確かめられなかった点:戦後の寄席の客数や落語ブームの規模の数字は確かめられなかった。圓生・志ん生の芸術院会員や人間国宝の有無は、開いた資料に記述がなく、書いていない。

この記事を読んで浮かんだ疑問は、運営者ジージが落語QAでくらさんに質問し、答えをそこに載せていきます。